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大学を休学して、3月の終わりから東京へ来ました。


簡潔に言うと、自分の好きなこと、得意なこと磨いて仕事にしようと思い立ったのがきっかけです。


僕が大学生になって会った人は、そもそも僕が何やってたか、一体何がしたいのかよく分からない、という人がほとんどだったかもしれません。

 

4年間ずっと、自分の中にあった情熱(意欲)を、僕自身が心に閉じ込め、何か思い出せぬまま過ごしていました。

 

 

 

 

今から4年前、2012年から2013年、オーストラリアにいました。


当時16歳だった自分は、ミュージシャンになりたいと願ってました。

 

 


中学の頃から、授業では英語、それ以外では音楽と洋楽に取り込まれ、ネットと本から膨大な知識(The Beatlesからはじまり、Robert JohnsonからKanye west、楽典、機材、演奏)を得ようとしてました。幼少期から興味あることに一点没頭する性格だったので、時間があれば無意識のうちに、行動してました。


中学は地元の進学校へ行ったものの、学業と部活は中途半端のまま、周りからはいわゆるダメ人間的な扱いでした。

 

地元から離れたい、と思っていました。共感する人、する物は少なく、ここから抜け出したいという思いでいっぱいでした。

 

 

 

高1の時、海外への留学を決めました。行った先は、AustraliaのBrisbaneにあるアートスクールでした。元は、Bostonでしたが、手続きの都合で行けなくなり、縁のあったBrisbaneに決まりました。通った高校は幼稚園のYear 1からYear 12まで、アートだけでなく勉強からスポーツ、コースで分かれた場所でした。留学生もたくさんいて、また移民大国ということもあり、多くの人・価値観と出会いました。行きたいと言って、費用・リスクともに大きいに関わらず、行かせてくれた親には感謝してます(家族・先祖ともに海外と縁のある人はおらず)。


今振り返れば、充実し恵まれていました。
学校では音楽をキーワードで友人ができ、音楽について語り、セッションし、友人とライヴをしたり、町中のショップを回り夫婦で経営してる2人と仲良くなり、同じ左利きのギターの先生を紹介してもらったり、友人の親つながりでMetallicaのJames Hetfieldに会えるチャンスが来たり(スケジュール上あと一歩で会えず)、自分の好きが力になり、そこからたくさん学びました。
街でのBuking(路上で演奏)は今でもいい思い出です。オーストラリアはBuskingの聖地でした、なのでオープンな雰囲気に刺激を受け、ある日Gibson ES-335のコピーとRolandのアンプを両手に、Main Stの端に立ちました。街でいつも演奏してるベテランのおじさんが自分を見つけると、幸いにもBuskingのコツについて教えてくれました。 3時間、頭に浮かんだリフや曲をひたすら弾きました。そのとき感動したのが、演奏してる目の前のベンチでそっぽを向いて、待ち合わせをしてる男性がいました。彼は、そろそろ止めようと自分がギターを降ろし片付けを始めたところ、10ドル札片手にこっちへ来て、いいセンスだったよ、と。そのまま去っていきました。彼は待ち合わせでなく、さりげなく演奏を聴いててくれました。多分、21年生きて1番胸が熱くなった時でした。計40ドル集まりました(使わずそのまま日本へ持ち帰り、大切にしてます)。
友人から紹介してもらった先生からは、実際4ヶ月だけでしたが、まず日本でトップのギタリストにする!と。短い中、一から色々学びました。

 


学校もほぼ遅刻せず通い、進級できる成績ももらいました。1年の契約で留学した自分は、そのまま現地の高校を卒業して、現地(あるいは卒業したらUS or UK)に行きたいと本気で考えてました。
日本の家族と電話で相談しました。家族からは、滞在の費用、また元いた高校・日本の大学は卒業してほしいと言われ、自分は語学留学という形で、費用から全て行かせてもらってる身だったので、そのまま3月の終わりの1セメスターが終わった時点で、1年間の成績証明書をもらい、帰国しました。
この時自分の思いが叶わず帰国することとなり、自分の中にある"情熱"みたいなものを自分で握りつぶさなければならない感じがして、絶望しました。
当時の自分は自分で仕事をしているわけでもなく、家族、他者のおかげで1年間過ごせてしたので、まだお金なり、社会のルールなり知らないことも、今と比べればたくさんありました。留学した先であった同世代の人も、裕福そうな人がほとんどでした。
とはいえ、帰国すると決まり準備をしていた時、すごく悔しかったのを覚えています。
学校の友人にも帰国の1週間くらい前まで寂しく言えませんでした。仲の良かった人たちに別れを告げるのは、つらかったです。帰りの飛行機では自然と涙が出ました。

 


その後、高校3年生にそのまま進級し、帰国子女枠で大学へ行くつもりでしたが、現地の高校の卒業資格がないと受けられない大学がほとんどであり、6月から一般入試の勉強を始めました。半ば状況をふまえ本気で高2の勉強もふまえやってた反面、自分の中の”情熱”みたいなものは失せ、また留学してまた地元に帰った自分は、以前に増して、周りに合わせて、個性より協調することを念頭にしてました。ギターもしばらくケースに入ったままでした。
結局入試は志望した大学には行けず、地元の大学へ行くこととなりました。

帰国して早4年ですが、あくまで周りが悪いと言いたいわけではなく、自分の取捨選択が甘い部分はありました。しかし、大学になってからは、もう少し自分が何者か思い出して、もっと自由に伸び伸びとやって良かったのではと反省しています。
今なら、スキルを持てばお金も時間も持てる、と今は考えています。
時間がかかりましたが、今の決断に踏み切れたこと、また元いたありのままに生き生きしてた自分と向き合おうとなったのは、”人”だったと思います。特に最近になって、自分のやりたい、好きを仕事、また勉強してる人と出会い、時に飲みながら本音で話したりしました。その時言われたのが、Yoshikiは自分の好きを磨いて、仕事にすればいい、と。でないと、嫌々何かを仕事にしても続かないと。たしかに振り返れば、小さい頃から、心から好きでないことには目も向けないやる気も出ない性格でした。

 

 

 

 

これからは、デザイン(Webデザイン)と音楽を中心に時間を使いたいと思います。大学へ再入学というわけではなく、デザインは企業へインターン、また音楽も含め独学で、時に人と会い、磨いていこうと思います。個人的に、大学(一般的な日本の大学)のシステムは基本的に受動的になりがちで、中途半端になりうる印象を振り切れないので、能動的なスタンスを求められる仕事(インターン)、独学、環境を歩きたいです。先にも言った、”人”と、もっと会い、話すべく、拠点を東京に移しました。

 

 

 

これからは、誰かが言ったから、とか社会のルールがこうだから。

 

 

ではなく、

 

 

自分がどうしたいか、何を目指してるのか、で、生きたいです。

自分から社会を、世界を変えたい。